鹿児島県霧島アートの森 開園二周年 美術講演会  
 
 では彫刻はどうかというと、彫刻は絵画とはまた違った性格を帯びています。これはボードレールと言う19世紀フランスの詩人で美術評論家が言ったことですけれども、彼は彫刻を批判して「彫刻は退屈だ」と言うのです。なぜなら、絵画を見る視点はたった一つしかない。絵というのはさまざまな視点から見ることはできません。そのたった一つの視点というのは画家によって正確に定められています。絵の前に立って、われわれは画家が見ている同じまなざしで絵を見るしかありません。
 ところが、彫刻は周囲を巡ることができます。彫刻家でも作品を見てほしい角度はあると思います。人物像で言えば、正面から見たり、あるいは少し斜めから見たりとかであって、後ろから見ることは想定していないでしょう。彫刻家は「ここから見てほしい」と思うのだけれども、ところが、観客はぐるぐる周りを回れるわけですから、それ以外にも100もの見方ができるわけです。
 しかも、照明によって全然違ってきます。絵画の照明の仕方というのは、満遍なく画面を均一に照らすしかありませんが、彫刻は一条のスポットライトを当てることで、非常にドラマチックに空間を演出できたりするのです。それも、彫刻家自身が考えてもいなかったような照明を当てられてしまうことだってあるわけです。
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 そこでボードレールは、「絵画の視点は独占的で、画家が見たような見方以外の仕方は許されない。だから絵画は彫刻に比べてはるかに強いのだ。彫刻はそういう意味では非常にあいまいな芸術である」と言うのです。だから、鑑賞者の立場から見ても、絵画と彫刻は全く性格が異なるわけです。でも、その彫刻のあいまいさ、いろいろな照明で変化していく、あるいはさまざまな視点を受け入れて、ときには彫刻家が思ったこともないような美しさを観客自身が発見したりするというのは、彫刻の弱さでもあるかもしれないけれども、それは同時に彫刻の面白さでもあるわけです。
 それを別の言い方をすれば、彫刻は環境的であるということです。置かれる場所によって意味を変えてしまう。彫刻を純粋にホワイトキューブの箱の中に置いて鑑賞しようとしても、絵画のような唯一の視点からの純粋鑑賞は成り立ちません。後ろに回ってみたり照明を変えてしまったりすると、性格が変わってしまうからです。
 逆にそういうものの面白さを積極的に生かそうではないかということが、彫刻の美術館のキュレーターたちが考える展示の方法のひとつですけれども、それに野外という条件が加わると、彫刻の持つ環境性が美術館の中よりはるかに拡大します。例えば、最近、パブリックアートということが盛んに言われるのですけれども、超高層ビルの前とか、あるいは路など、都市の中に彫刻が点々と置かれることが多くなってきました。他方では、自然の中に彫刻を設置したりもします。絵画とは違う、彫刻の持つ環境性というメリットを大胆に発揮できるわけです。
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 でも、すべてが万歳というわけではなくて、最近はパブリックアートがどんどん増えてきたけれども、非常に皮肉な言い方をすれば「彫刻公害」と言われることがあります。見たくもない彫刻を毎日通勤のときに見せられてしまうとか。美術作品にはテイストがあって、だからいいわけですけれども、ある人にとっては非常に美しい作品が、ほかの人にとってはそんなに魅力がないということもあるわけです。それを毎日同じ場所で見せつけられて、出勤のたびに、あるいは公園で遊んでいるときにいつも目にしてしまう。そういうものがどんどん都市に増えてくると、「こんなもの余計だ。何もないほうがすっきりする」というような意見もあって、彫刻が野外に進出していくということは必ずしも万々歳というわけではありません。
 逆に言えば、そこに専門家たちの精密な計算が必要で、環境になじむような技術的な工夫をしなくてはいけないわけです。それは都市の中でも言えるわけですけれども、この霧島アートの森に関しても、われわれがまずもって心しなくてはいけないことでした。

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