ところが、セラはそれに反論して、「これはニューヨークの広場、堕落した市民の場所である。自分たちの日常生活をのんべんだらんと暮らして、何の批評精神もなく生きている。その陳腐な堕落した広場を封殺するために作ったのである。この作品が不愉快であれば、なぜ不愉快であるかと考えさせるために、この作品を作ったのである」と主張し、撤去に応じませんでした。
公聴会が開かれて、最後は裁判に持ち込まれそうになったのですが、10年間ぐらい、さまざまな議論の応酬が合った後、撤去されてしまったのです。撤去にあたって、ニューヨーク市はそれを郊外の広場に移設することを提案したようですが、セラは受け取りを拒否、移設も拒否しました。すなわち「この作品はこの広場にあることによって初めて意味がある。この堕落した広場の意味を封殺して、そのことをそこに住んでいる人たちに身体をもって感じさせることによって初めて作品として実現するのであるから、受け取ることも拒否するし、移設も拒否する」というものでした。その結果、フェデラル・プラザから作品は消滅してしまって、二度と作られることがなかったわけです。このように、セラは場所に関与していくのです。場所の意味を生かすというより、批判的に関与していって変質させてしまうことを意図しています。
フェデラル・プラザの彫刻を撤去することは、僕はやむを得ないとは思います。われわれは堕落した小市民かもしれないけれども、誠実に一生懸命日常を生きているわけですから、そういう人たちの憩いの場所を奪うということは、いかにそれが偉大な思想に基づいていようとも、彫刻家の傲慢さだという風に思います。セラは僕の最も尊敬している彫刻家ではありますが。僕は住民ではないから撤去してほしくなかったけれども、住民であれば絶対反対したでしょう。 |
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何年か後、その場所に戻ってみると、彫刻はもうなくなっていて、ものすごい何十トンという重量であったわけですから、かつての台座の跡だけが石畳の中にすっと弧状に残っていました。それは彫刻の意味は何か、彫刻は市民にとってどういうものかと、いろいろなことを考えさせる光景でした。だから、逆説的には「あの彫刻はそこからなくなることによって永遠に存在している」というような言い方もできるわけです。
彼は、ストームキングにやって来て、あるいはその逆のことをやようとしたのかもしれません。「小市民的な美しい自然なんていうのは封殺するのだ」と。ところが、この場合は結果的に非常に興味深いことになりました。ストームキングは、寛容にも作家に大胆に思うようにやらせたのですが、あまりにも自然が雄大で、しかも大きな開放感を持っているために、本来であればフェデラル・プラザでの彫刻と同じようにわれわれをいらいらさせるはずのこの鉄の壁が、ここでは美しく見えてしまうわけです。つまり、大自然の中に共有されてしまうというか、そのありようと都会とのギャップが面白いものでした。セラにとっても、ひょっとしたら意外なことだったかもしれません。あるいは、どこかでそういうことを彼は意識したのかもしれません。自然と闘うけれども、それは破壊に向けての戦いではないと考えたのかもしれない。
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実は、この作品は4枚の鉄板が地面に突き刺さっているものです。遠くから見ると、その4枚が同時に目に入りますが、下から見ると、エッジが空のほうへぴゅっと尖っていて、非常に緊張感を感じさせる美しい仕事です。自然破壊という風に表面的には言えるかもしれないけれども、逆に言えばそのことによって、われわれは自然の雄大さというものに改めて認識することができる、そんな言い方ができるかもしれません。
これは、マグダレーナ・アバカノヴィッチと言うポーランド出身の女性彫刻家の作品です (スライド画像:S.10&S.11)。彼女はファイバーワークというジャンルを切り開いた人なのです。ファイバーワークとは「繊維芸術」という意味ですね。布とか縄とかドンゴロスとか、そういうものは衣服の材料にはなっても、あまり彫刻的な素材とは考えられてきませんでした。タペストリーなど工芸的なジャンルに属すると考えられていた素材をもって、彫刻的な造形表現へと展開させた人なのですが、この作品ではファイバーではない素材を使用しています。
アバカノヴィッチというのはポーランド人としても変わった名前で、白人とタタール人との混血なのでしょうか、アバカ・カーンというタタール名から来ています。フビライ・カーンとか言いますね。カーンとは「汗」と書きますが、自分の作家名として、あえてタタール人的な名前を付けてしまったのです。名前からして、西洋モダニズムの系譜に対する批判がある人なのです。
この作品は、墳墓の中の石棺のようなものを作り上げて、それをいくつも並べたものです。温室のようなガラスのケースの中に、ひつぎがずっと並べられています。これも、のどかな小市民的な公園という観点から見れば「お墓なんか縁起でもない」と思うかもしれませんが、そんな不吉な感じはしません。公園にもいろいろなバリエーションがあっていいと思います。
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