これはストリーターという人の《エンドレスコラム(無限柱)》という作品です(スライド画像:S.37)。ランクーシと言う近代彫刻を創出した偉大な彫刻家が制作した、無限の反復を繰り返しながら空に伸びていく《エンドレスコラム(無限柱)》という作品があるのですが、それを前提にした作品です。彫刻というのは不自由な芸術で、絵画のように自由にどんなイメージでも生み出せるわけではありません。現実の空間の中に、重力に抗して構築していく垂直性というのが中心的な要素です。もちろん、水平的な作品もありますけれども、彫刻の中心は垂直性です。ドルメンなどもそうですが、例えばトルソーでも、人体は垂直に立っています。重力に抗して垂直に立つという垂直性、直立の力が彫刻の原点であるわけですが、それをこういうふうに、くねくね曲がりながら伸びていくという形で、もう一度彫刻の垂直性を読み直してみようというのがストリーターのユーモラスな狙いだったのかもしれません。 |
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| 大雑把に作品を紹介してきましたけれども、取り上げなかったものも随分ありました。ヘンリー・ムーアの作品とか、そのほかにもメジャーな作品がまだまだあるのですけれども、ニューヨークからの日帰りですと、実際に公園内に滞在するのは半日ぐらいで、とても全部は回りきれないのです。霧島と重なっている作家も今までにご紹介した中に何人かいましたが、このほかにもナムジュン・パイクの作品とか、双方に共通する作品を見ることができました。二つの館は、姉妹館と言うと少しおおげさになるかもしれませんが、親戚付き合いぐらいはしてもいいのではないかという気がいたしました。これでストームキングの紹介は終えておきます。 |
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最初に言ったように、彫刻作品は屋外でのみ、その良さが分かるというものではありません。例えば屋外では厳しい自然という条件がありますから、素材の制約を受けることになります。木彫は彫刻にとって非常に重要な部分を占めますが、屋外に木彫を出すと言うことは、基本的には無理です。野外彫刻が、彫刻のすべてではありません。ですから、この野外彫刻の美術館に屋内展示場があるのは決して中途半端なことではなくて、彫刻の楽しさの全貌を紹介しようと考える限り、こういう施設で保管し、展示していかなければいけない作品もあるわけです。しかし彫刻固有の魅力を引き出すことができるのは、野外の空間であるということは事実です。
難しいのは、野外の環境は、先程言ったようなホワイトキューブとは違うことです。抽象的でもないし、無名性の場所でもありません。ある特定の場所にかかわりがあるのです。自然とはそのようなものでしょう。どこの自然も同じということはありません。一方美術館のホワイトキューブは、結局どこの美術館も同じなのです。だから、美術館の作品は、いろいろな展覧会があるとたびたび移動して展示され、集合離散を繰り返すことができるのです。
非常にアイロニカルな言い方をすれば、世界じゅうの美術館は一つの美術館なのです。そこを遊牧民のように、作品があちらの展覧会、こちらの展覧会と移動することになります。ですから、美術館の学芸員にとっては、作品の貸し借りというのが大変な業務になります。というのは、全部同じ空間ですから、いろいろな並べ方が可能であって、そのために学芸員がいろいろな企画を考え、その趣旨に合った作品を借りたり、あるいは貸し出したりするのです。
ところが、彫刻は環境的です。つまり、場所を選びます。この霧島アートの森でもそうですし、ストームキングでもそうですけれども、作家たちに来てもらって場所をみてもらったうえで、「この場で制作して欲しい」、「ここの場所でしかできないことをやって欲しい」と依頼しているのです。その結果、先程お見せした、高原を見晴らす渡り廊下のような建築的な彫刻ができたりするわけです。あの作品は、もし運搬手段があったとしても、どこにも貸し出せるわけではありません。あの場所になくてはいけないのです。サイト・スペシフィック(場所特定的)という言葉がありますが、そこで作られた作品はその場所にないと意味がないのです。これは彫刻にとって宿命的なことです。 |
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彫刻は本来的に場所性があると言えるでしょう。例えば、上野の森に西郷さんの銅像があります。あれは、高村光太郎の父親である彫刻家高村光雲が2、3人とともに制作したものです。あれはモニュメント、記念碑です。その場所の意味、その場所に属する歴史の意味を語るモニュメントなのです。西郷さんはあそこで着流しを着て犬を連れて、江戸の町を睥睨(へいげい)しています。西郷隆盛は官軍の将です。官軍が江戸に攻め上って来て、江戸城は無血開城するわけですが、上野の山だけは彰義隊が最後のささやかな抵抗をしました。それを粉砕して官軍は江戸を支配することになります。ですから、西郷さんは最終的に官軍の支配を確立した上野に立つ意味があるのです。あの場所にいなくてはいけないのあって、「どこでもいいじゃないか。国会の前でもいいんじゃないか」ということではないわけです。
そういうふうにモニュメントは場所を要求するわけです。彫刻というのは、もちろんすべてがモニュメントではありません。霧島にある作品も、「官軍の勝利をうたうために作ってくれ」とか、「鹿児島の雄藩の偉大さをたたえるために作ってくれ」というような注文で受けたわけではありませんが、作家たちは現場へ来ると、この場所にしかないこと、この場所の力を考えようとするのです。 |
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