鹿児島県霧島アートの森 開園二周年 美術講演会  
 
 他方、絵画は場所に属するということもないし、そういう制約は受けません。絵画のことをタブローと呼ぶのを聞いたことがあると思いますが、これは持ち運びできるものという意味です。テーブルと同じ語源からできた言葉です。額縁に入っていてどこにでも持っていける絵画。つまり、場所に属してはいない作品なのです。特に近代以降の絵画は場所に属していないのですけれども、彫刻は相変わらず場所に属していて、その場所の意味、場所に属する時間の意味を語ります。そのために表現は大きく制約を受けるけれども、彫刻ならではの表現の魅力と強さが生まれてくるということが言えるでしょう。
 だから、野外彫刻公園に並んでいる作品は、もちろん一般的な意味でのモニュメントではありませんし、別に歴史を語っているわけではありませんが、作家たちはその場所でいろいろなことを静かに考え、制作すると思います。霧島で言うと、ルチアーノ・ファブロと言う人の作品が樹林ゾーンの中にあります(スライド画像:K.09)。これは見逃しやすい作品ですので、気を付けて見て下さい。彼は霧島に関わる古代神話の物語を彫刻にして、霧島に対してメッセージを送ったのだと思います。そのように、場所から想を得て制作された作品が随所にあります

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 今、場所性というものが、美術の中で再び問題になってきています。というのは、話が複雑になりますが、彫刻も一時期、場所性を失ったのです。皆さんもよくご存じと思いますが、ヘンリー・ムーアとかカルダーといった近代彫刻の巨匠たちは野外彫刻をたくさん作りました。でも、これは全部モニュメントではありません。ヘンリー・ムーアの彫刻とかカルダーの彫刻は、場所の意味を語らないのです。世界じゅう、日本にもあちこちにヘンリー・ムーアの彫刻が置いてありますけれども、どの広場、美術館の前、どの通りにあっても、その場所の意味を語っていませんから、交換可能なのです。ニューヨークのポケットパークにあるヘンリー・ムーアの彫刻を東京のどこかの街頭に持ってきて、そこに置いてあるカルダーを元の所に戻しても、何の支障もないのです。
 これは西郷さんではそうはいきません。あるいはローマのカンピドリオの丘に立っているマルクス・アウレリウス帝騎馬像は、あの場所に立っていなくてはいけないのです。今は排ガスにダメージを受けて美術館の中に移されてしまいましたが、本来はあの皇帝像はそこにあることによって、その場所の歴史を語っていたわけです。
 ところが、近代彫刻は場所性を一時期失いました。世界じゅう交換可能な状態になってしまった。あるいは交換可能な状態になることによって、絵画と同じような造形的な自由を獲得したとも言えるわけです。その出発点はロダンだと言われています。
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 ロダンの《地獄門》が、今、上野の西洋美術館の前庭にあります。これはバージョンが五つぐらいある作品ですが、もともとは特定の場所の門として設計されたものです。ところが、できあがってみたら大変な重量になってしまった。門として役に立たなくなってしまったので、石膏の原型のままずっと置かれていたのです。のちに松方コレクションの松方子爵が依頼してブロンズに抜いた作品が今、西洋美術館に置いてあるのです。ロダン美術館にもありますが、西洋美術館の鋳造はもっとも優れたものです。先程も申し上げたようにも、美術館は場所ではない場所です。場所に属することに失敗することによって、モニュメントであることをあきらめて美術館に置かれるようになったというのが近代彫刻の出発点です。ロダンはそのようにして場所性を失ってしまい、そのことによって造形的な自由を獲得し、近代彫刻の出発点となったのです。
 そうしてヘンリー・ムーアやカルダーのように彫刻家たちが、伸び伸びと近代彫刻の造形性を謳歌したわけですが、最近はそれに対する反省が生まれてきました。つまり「それでよいのか。それが彫刻の本来の姿なのだろうか。彫刻こそが絵画とは違ってある場所に属することができる。その場所でその環境と対話することができる」という考え方が生まれてきました。
 従って、野外彫刻公園には両方の考え方が混在しています。霧島にも、ストームキングといつでも交換できるような作品があるかもしれません。他方、霧島という場所に属することによって初めてその意味が分かる作品もあります。その二つの彫刻の面白さを霧島で楽しんでもらえるのではないかと、僕は期待しているのです。

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